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読売新聞に掲載されました。本とわたし「逆命利君」/電通時代に学んだ仕事人として生きる軸

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2018年11月23日の読売新聞神奈川県版の”本とわたし”に柴田明彦のインタビュー記事が掲載されました。
下の画像がその記事ですが、柴田の表情が普段と違って硬いのが微笑ましいです。笑。

この中で柴田は影響を受けた1冊として、佐高信氏の「逆命利君」を紹介しており、電通社員時代に上司の矛盾する命令や、不条理・不合理な組織の中で苦しんでいた最中に読んだ思い出深い一冊だと語っています。

読売新聞神奈川県版2018年11月23日版紙面

読売新聞神奈川県版2018年11月23日版紙面

文章を書き起こしました。

本屋で見つけた「逆命利君」というタイトルが強烈でした。「命に逆らわざるをえない場合は、逆らっても、あえて正しいと思うことを言う」。それを文字通り実践した住友商事常務・鈴木朗夫(l987年、56歳で死去)は、企画力、折衝力、語学力に優れ、世界中に取引先を開拓した「伝説の商社マン」と呼ばれた方です。芸術を愛する教養人で、働き過ぎの日本人を軽蔑してズケズケと意見を言う鈴木と、彼を重用した伊藤正社長(故人)。2人を軸にしたノンフィクションで、広告会社の電通に入社して数年後に読みました。

当時の電通メディア部門は、今でいうブラックカンパニーのど真ん中。上司が「うちは風通しがいいから何でも言ってこい」と言うので、細々と報告すると、「いちいち言ってくるな。自分の判断で進めろ」と言われ、何かあると「どうして報告してこないんだ」と怒られる。不条理と不合理、の連続でした。二つの矛盾する命令を出されてストレスがたまる中、どう生き抜くべきか悩んでいました。鈴木は組織の中で自分のやり方を貫き、孤高の戦いをした反逆児です。私も素直な性格ではないので、いちいち反抗、反発してみたかった。「人と違うやり方だっていいじゃないか」と鈴木を手本に、精神的な支えにしました。まぁ、ボコボコにされましたけどね。

広告会社は顧客に指名され、好かれてなんぼの世界です。感情のひだにどう入ってい<か。売り物は人間しかありません。ささやかなこだわりですが、電話ー本で済むところを必ず出向くようにしていました。

電通を辞めたのは47歳になる直前。局次長への昇進でしたが、名古屋に行けという人事異動の大義がどう考えても分からず、金曜日に内示を受けて月曜日に辞表をたたきつけました。

辞めてから「多様性工房」という会社を起こし、企業の広報や宣伝のコンサルティングなどを行ってきましたが、2015年に「大磯町参与」という仕事をもらいました。旧吉田茂邸の利活用を考えるプランナーです。前例踏襲が多い自治体の発想の枠を飛び越え、民間のスピード感覚も取り入れながら町に「利」をもたらしていこうと思います。(池尻敦)

ー出典:読売新聞神奈川県版2018年11月23日ー

社会に出て、仕事の悩みに直面した時に何気なく手に取った本が自分に力を与えてくれる1冊になる。たくさんの本が並ぶ書店で、そんな1冊に出会えたのならそれは読むべき運命だったのかもしれません。

柴田が逆命利君を読んで何を思ってどう活かしたのか?
限られた紙面の中では語りきれなかった、逆命利君から学んだ柴田なりの仕事人としての生きる軸をもう少し詳しくご紹介します。

では、以下より代表柴田にバトンを渡します。

語り切れなかった僕の逆命利君とは!?

「逆命利君」の文字を入れ替えてみる。

まずは「命利君」。“命に従いて、君に利をもたらす”。これは優等生的なスーパーサラリーマンだ。上司としては部下にしたいタイプのナンバーワンだろう。次に「君」。“上司の命令には素直に従うけど、利をもたらすことは出来ない”。組織2・6・2の法則に置き換えるならば6割の部分かも知れない。敢えて辛口表現するなら泰平期にぬくぬくと牧歌的に生きた平均的サラリーマン。外資系企業では生き抜けない。そして最後に「逆命君」は言わずもがな。敢えて必要悪とだけ付け加えておこう。以上、多少コントラストを付けた区分を意識しつつ、僕なりの逆命利君について言及したい。

僕は極楽トンボのような大学生活を過ごし「創造と感性」の世界で働きたいという淡い思いを描き電通を志願した。入社した昭和58年(1983年)、会社には“ザ・昭和”という匂いと“男たちの汗と涙”が充満していた。最初に配属されたフジテレビ担当部署は、社内でも過酷な代名詞と言われた部署。もとい、新入社員“不人気3部署”の一つだった。そこには朝から晩、いや深夜に至るまですべての行動規範に「電通鬼十則」と「責任三カ条」が貫かれていた。カルガモの子は初めて見たものを親と思う。僕も「会社」とはそのようなものだと抵抗もなく受け入れた。ましてや、入りたくて志願した会社だ。選抜にもれた他志願者のことを考えれば、不平不満を口にすることなど出来ない!と自分を鼓舞させた。

一か月の集合研修を経て現場に配属。その部署にしか通用しないビジネス手法、価値観といった不文律の掟を順守することが、現在のコンプライアンス(法令遵守)と同義のように理解した。先輩は全身全霊をかけて後輩の指導・教育に取り組む。『先陣の谷に突き落とす』という表現をよく思い起こしていた。何度となく深い谷に突き落とされても必死に這い上がっていく“タフガイ”にのみ“電通DNA”を引き継がせていくように感じた。そのようなプロセスを辿ってきた猛者たちを見て、後輩は必死に駆け上る、ようやく先輩の域に達したかと思ったら、先輩は更に高い所に駆け上がる。社内を見渡せば、色々な「技」をもった諸先輩がいて「ロールモデル」には事欠かなかった。修羅場のような日々が続き、トイレに行っては今にも泣き出しそうな情けない自分の顔を鏡越しに睨みかえす。「負けてたまるか!」鏡に映る自分に叫び、現場へ戻り、罵倒・叱責・怒涛の嵐に再度突入する。“電通の常識は世間の非常識”と揶揄されてもお構いなし。広告会社の生命線ともいえる「扱い」の維持・拡大・奪取だけを目指して全力疾走する毎日。不屈の精神力とそれに支えられた肉体力をもち、この弱肉強食のサバイバルを生き抜く。僕はそのような環境でビジネスマンの一歩を踏み出し駆け抜けてきた。

この本と出合ったのは、朝日新聞社担当部署に異動した頃だ。当時(1989年)は、今以上に新聞社の権威が強かったと思う。企業や団体が1年間に国内で投下する広告宣伝費総額の約25%が新聞という時代だった。〈*1989年、日本の総広告費は50,715億円。その内新聞広告費が12,725億円(構成比:25.1%)。ちなみに2017年では、総広告費63,907億円、新聞広告費5,147億円(構成比:8.1%)〉。日本に幾つかある権威、その一つに新聞があり、新聞業界における朝日新聞は頂点だったのかも知れない。片や世界一の広告会社となっていた電通からすれば、意向が通じない朝日新聞は苦手なメディアであり、自尊心を傷つけられる存在だったことも事実だと思う。新入社員不人気3部署と先述したが順不同に言えば、フジテレビ担当部署、朝日新聞担当部署、全国の地方新聞社を担当する地方部のことだ。ちなみに僕は、この3部署を経て、更に付け加えるなら朝日新聞担当を「2回」経験してから部長に昇格した。パンチドランカー体験は、僕のビジネスマンとしての骨格形成になっている。今となれば、ありがたい修行だが、もう一度!は勘弁願いたい(笑)。

本線に戻そう。現代はセキュリティー面から、あらゆる企業がゲストに対しIDを課している。当時の朝日新聞IDタイトルは「出入り証」。広告会社も“新聞広告原稿をお届けにあがる”出入り業者の1社に過ぎない、といったところか。それも昭和という時代の象徴の一つだったのかも知れないが、僕はこのID名称に激しく反発し、2度目の担当時代に名称変更を先方役員に直談判した。
さて首から“出入り証”をぶら下げ、朝日新聞に出入りする日々が始まる。電通社内ならびに朝日新聞の“不文律の掟”では、窓口は「広告局」であり、広告局を飛び越え、それ以外部局への立ち入りはご法度だった。朝日新聞の広告局員とさまざまな交渉をすると、度々聞かされる台詞があった。それは「編集局さんが・・・」。この台詞の使用頻度は夥しく高かった。社外の相手に対し、身内を「さん付け」で呼ぶ風習に強烈な違和感と嫌悪感を覚えた。一方新聞社の決定に至るメカニズムに編集局があるとするならば、そこを攻めるしかないじゃないか!と考えた。以来、隙あらば編集局に潜り込むことに努める。編集局の見えざるヒエラルキーの中、いきなり主流の政治部、経済部、社会部は壁が高いと判断、アプローチしやすい学芸部と運動部に照準を定め、あらゆる機会を虎視眈々と狙う。足繁く通う中、徐々に人脈基盤が出来始めた頃“ある事件”が勃発。広告担当役員から電通の上層部に「お宅の若手社員が、編集局に出入りしている・・・」との苦情が入った。この一件は、僕の反骨精神に着火した。燃える闘魂(笑)とアドレナリンの異常分泌をきたし、従前に増して編集局攻略に明け暮れた。この真実を述べることは、既に「時効」ということで関係各位殿のご了承を願います(笑)。

僕は元来“愚痴”が性に合わない。だから仕事のストレスは、酒・女・ギャンブルではなく、仕事でケリをつける。20代の頃から、ガード高架下の居酒屋で“愚痴を肴”に飲むオッサンたちを反面教師としてきた。また外野席からの野次、対岸からの批評・批判は、滑稽な図としか僕の眼には映らない。当事者意識を持ち続ける。それが萎えたら現役を退く。それだけのことだ。
当時の自分は、現状システムの中で先人が敷いてくれたレールを走り安穏と送る日々に何か物足りなさを感じていた。「創造」とか「変革」とは何かと自問自答している時期であったと思う。そして、創造も変革も不連続面を飛び越えていくこだとおぼろげながら意識し始めていた。逆命利君の精神はそのようなコンディションの自分に対して強烈なカンフル剤となった。摩擦とは外界での折衝・交渉時に限定されたものではないことを改めて認識した。自分自身の既成・固定概念、前例、慣習、しきたり、作法等総てを冷静に見つめ直し、必要に応じて打破していくプロセスにも「摩擦」は生じる。まずは自分と徹底的に向き合うことから始まり、その延長線上に初めて自分が置かれたビジネス環境においての既成概念、前例、商慣習、作法、不文律な掟・しきたりと対峙していくことになる。

個々人にとっての成功体験は自分独自のものであり、他人の体験とは一線を画するように特別視する傾向にあるものだ。職場には諸先輩の成功体験が満ち溢れ、その職場単位の文化と作法が形成されていく。それはいつしか決して明文化されない村の「掟」のような存在となり、何の迷いもなくその掟をただ忠実に継承して、職場単位の文化が形成されていく。職場の新参者に対しては、その掟を順守させるOJTが施される。その掟はその村にしか通用しないものであっても、唯一絶対的な憲法として輝く。僕が社会人になった昭和という時代の後半にはそのような職場文化がどこの会社でも散見されたものだ。

会社から、上司から言われたことを“オウム返し”の如く履行するのもよい。「従命利君」のようなスタンスは必要条件ではあるが、十分条件と言えるだろうか。一方では上司が指示したアプローチ方法を変えながらも同じ目標に到達することが多々ある。やり方、方法論の違いという多様性を容認し、あらゆるプレイヤーが存在する組織こそ強靭な組織であり、価値多様化した時代に生き残る。多様性を増幅し、多様なオプションを保持し続けることが企業の強さと時代適応力に他ならない。生命世界においても「多様性」が強さであり、安全保障を担保している。遺伝的な画一性は、ウイルスや気候変動に対する脆弱さを意味する。キーワードは「多元的・多様性」。その思考の補助線になったのが逆命利君の精神。

逆命利君/佐高 信/

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