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シリーズ「師匠」① 朝日新聞X氏

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鵠沼海岸の夕日

毎週末のブログ更新を仰せつかり、こうして大晦日まで更新しているワケですが(笑)
何が一番良い事かと言えば柴田の原稿を一番先に読める事です。
今回の記事から学んだ事は、何事にも全力で向きあう姿勢です。

「シリーズ師匠」では、柴田明彦が社会人になってから今日までお世話になった方々の中から、特に思い出深い方を柴田とのエピソードと共にご紹介致します。

シリーズ「師匠」①

社会人になってから実に多くの方々と出会い、そして学ぶ機会を頂いた。「シリーズ師匠」は、僕にとって、かけがえのない師匠を紹介させていただきたい。実名は伏せるが(総ての師匠をXとさせていただく)、差し障りのない範囲(*僕の勝手な解釈)で描写していく。すなわちノンフィクション。今回は朝日新聞X氏。

◆人事ローテーション。

1983年、電通に入社、最初に配属されたのがフジテレビ担当部。当部が新入社員の不人気三大部署の一つだったことは既に述べた。アニメ「タイガーマスク」で描かれていたレスラー養成の“虎の穴”を彷彿させるような部署だった(苦笑)。
当時の電通には、10年間で三つの部署を体験させ一人前のアドマンを養成することを目的にした人事ローテーション制度があった。どうやらこの制度は現場からは大変不評だったようだ。この制度を推進した役員が退任される“花道”として、僕の同期が“生贄”となり1987年に最期の人事ローテーションが敢行された。異動は局間(〇〇局⇒△△局)が原則。僕が所属していたラジオテレビ局には13人の同期がいた。
ちなみに同局テレビ朝日担当部の同期Iクンは、配属数カ月で退社した。暫く音信不通だったが、久し振りに彼を見たのは東進ハイスクールのCM。彼は“カリスマ英語教師”に変貌していたのだ。
本線に戻そう。という次第で12人となった同期は、そのほとんどが営業局に異動した中、僕だけは新聞局。それも朝日新聞担当。泣く子も黙る不人気三大部署の一つ、いや僕的にはフジテレビ担当部に続き不人気三大部署に異動するという栄誉を得たわけだ。

◆朝日新聞という権威

当時(1987年/昭和62年)の朝日新聞は日本に幾つかある権威の一つであったと思う。入館証は“出入り証”という表記だった。朝日新聞社員にとって、広告会社は新聞広告原稿を“納入”する業者であって、ビジネスパートナーという意識など微塵もなかった。僕は朝日新聞担当時代に結婚した。披露宴で上司から祝辞をいただく。「朝日新聞という権威に挑む柴田は、サンチョが止めるのも聞かずに風車に突撃するドン・キホーテを想起します。」

敬愛するチェ・ゲバラは自身をドン・キホーテに見立てて、両親に手紙を書いている。

『もう一度、私は足の下にロシナンテ(ドン・キホーテの愛馬)の肋骨を感じています。盾をたずさえて、再び私は旅を始めるのです。もしかすると、これが最後になるかもしれません。自分で望んでいるわけではないが、論理的にはそうなる可能性があります。もしそうなら、あなた方に最後の抱擁をおくります。私は、あなた方を心から愛していました。ただ、その愛情をどう表現したらよいのかを知らなかっただけです。私を理解していただくのは容易ではないのですが、今は、私を信じて欲しいのです。芸術家のような喜びをもって完成を目指してきた私の意志が、なまってしまった脚と、(喘息の為)疲れた肺を支えてくれるでしょう。この20世紀の小さな外人部隊長を時々想い出して下さい。おふたりの強情な放蕩息子から大きな抱擁を送ります。~出典文芸ジャンキーパラダイス~』。

チェ・ゲバラをロールモデルに掲げていなかったら、朝日新聞担当職務は全う出来なかったはずだ。

◆師匠との出会い

朝日新聞のX氏は、東大法学部出身。権威の二重奏といったところか(笑)。
入社の際に「君なら編集が良いのではないか」と面接官に言われ「新聞の営業に興味がある」と回答した話は朝日新聞社内でも有名だ。
師匠は16歳年上。団塊世代の前“全共闘世代”といわれる。当時28歳の僕から見ればオッサンの域に達していたが、接触頻度が高まるほど、巷にあふれるオッサン連中との違いに驚愕した。
出会った頃の師匠の肩書は部次長。“出入り業者の若造”が対等に口をきける相手ではなかった。ましてや、師匠は既に朝日新聞社内でスター級の営業マンであり、その発言力は日増しに増強されていくような状況下にあった。
そして朝日新聞というヒエラルキーの中にあっては、Xさんの前に何重層もの人垣があった。新入社員から新聞社を担当していれば違和感なく、そのような商習慣に染まっていったのかも知れない。
しかし、僕が社会人として初めて配属された部署の「掟」は違った。フジテレビのあらゆる部署に潜り込み、その総ての部署に固有の人的ベースキャンプを張れ!金太郎飴は、どこを切っても金太郎の顔が出てくる。フジテレビのどの部署にも、電通という金太郎飴を形成することが至上命題となっていた。
少年時代に慣れ親しんだ軍人将棋を思い出す。駒は、少尉から大将までの各階級の軍人、およびタンク、飛行機、騎兵、工兵、地雷などがあり、種類によって勝てる相手が決まっている。
朝日新聞の部次長という階級、しかも昇る太陽の如く権勢を強大化していたX氏と“タイマン張れる”のは、電通では新聞局のキャップ(班長。世間一般で言うなら課長クラスといったところか)あるいは部長というのが暗黙の不文律だった。
しかし、血気盛んな28歳の青年は、軍人将棋のようなルールなど全く納得できない。“サシで対話”する機会を虎視眈々と狙っていた。
と、ある時朝日新聞主催の文化イベントに立ち会い、千載一遇の好機が訪れた。イベント終了後、1人で帰ろうとするX氏を追いかけ背後から声をかける。「一杯呑みに行きませんか!?」。会話内容はいまだ鮮明に脳内に刻印されている。印象的なフレーズは。

「誰それに話そうと思ったら不在だったので、違う相手に話した・・は、ご法度」

「広告のビジネスとは心理戦争に他ならない」

「決定に至るメカニズムを把握する。合議制なのかワンマン体制なのか等々」

杯を酌み交わしながら談義し「Xさんを代表権のある役員にします!」と僕は宣言した。若気の至りと言えばそれまでだが、よくぞ神のような発言をしたものだ。
この日を契機に以降、電通を退社するまで、月に複数回2人で呑みながら談義するのが慣行となる。X氏は常務取締役まで昇格され、朝日新聞社を退任した。当然ながら僕の影響力などカケラもない(笑)。

*でも少しだけお役に立てた!と自負している部分もある。さすがに文語では残せないな。詳細は講演会で話しましょう。但し録音しないを前提に(笑)。

◆最期の盃

辞表を叩きつけ退社した後、多くの方からは“残念です”に準じた言葉を頂いたが、Xさんは違った。退社挨拶に行くと、第一声は「あっぱれ!」、そして来し方には一言も触れず、ただ明日に向けた話題に終始した。
また各方面から餞別を頂く中、Xさんは“陣中見舞”と直筆で書いた封筒を用意していた。「粋」を全身で感じた瞬間だった。

Xさんには8歳違いの弟さんがいる。兄弟愛が無茶苦茶強い。兄はいつも弟を気遣い、弟にとっては尊敬する自慢の兄。柴田兄弟とは全く違う(笑)。
銀座にはXさんと談義した店が数件ある。僕が独立し数年経たある夜、1人でその中の一軒に行った。なぜかしら、その店に引き寄せられた。カウンターに仲の良いXさん兄弟を見つけ、強引に割り込む。Xさんはウイスキーを呑みながら、僕の現況を訊いてくれる。
Xさんは、じつは日本酒が一番好きなことを急に思い出す。散々呑んだ後に、近くの蕎麦屋さんに誘い、グラスをお猪口に替え、さらに談義を続ける。Xさんは読書家でもあった。独立してから新書を読み漁っていることを報告すると「新書党」を結成しよう!と真顔で語り始めた。頭脳明晰で、どちらかと言えばニヒリズムに近いXさんだが、熱き心を持った側面はあまり知られていなかった。次回のテーマを決め、タクシー乗り場で見送る。

しかし再会は叶わなかった。Xさんの命日は覚えているが、僕の脳内では永遠の師匠として生存している。だから師匠との対話は現在進行形。

(柴田明彦)

柴田の電通でのエピソードが他にも読めます↓

漫画で読む電通鬼十則

 

 

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