カタカナ言葉がどうも苦手な私は(年なのかも)イノベーションと聞いて「私には縁遠い事」に違いないと心の壁をうっすら感じていましたが、柴田の原稿を読んで、イノベーションとは私たち社会人なら誰でも持っている思考と経験を土台にして始まる事であり、今自分が持っている能力のちょっとした組み替えをする事で始まるのだとわかり、カタカナ言葉に少し親近感を持ちました。
イノベーションとはどの様な”能力の組み替え”だと柴田は言っているのか?どうぞお読みください。(編集長記)
~イノベーションとは~
一般的にはイノベーションという言葉から想起されるのは技術革新だが、その限りではない。
そもそもイノベーションとは20世紀初頭、オーストラリアの経済学者であるヨーゼフ・シュンペーターが編み出した言葉だが、当時も技術に限定した概念ではなく、制度や仕組みの革新に力点が置かれていたようだ。
すなわちイノベーションとは、従来の枠組み、仕組み、制度等に対して、新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を創出し、社会に大きな変化を起こすことだ。
東京大学大学院教授・坂村健氏によれば、イノベーションとは「利益を生むための差を生むための行為」であり、「差」そのものではなく、「差を生むための行為」だと定義している。従ってイノベーションは社会環境のあらゆる分野で巻き起こる広義な概念として再認識する必要がある。
~日本におけるイノベーション現状~
イノベーションを以下の三つに分類してみる。
①プロダクト・イノベーション
②プロセス・イノベーション
③インフラ・イノベーション
①プロダクト・イノベーションは例えば液晶テレビ、デジタルカメラなど新ジャンルの製品を開発することで、日本の得意分野とも言える。
②プロセス・イノベーションはトヨタの「カンバン方式」に代表される方式・運用を指す。このイノベーション分野も日本は比較的に強いのかも知れない。
これらに対して日本が弱いと言われるのが③インフラ・イノベーション。すなわち枠組み、仕組み、制度、構造を創るイノベーションだ。制度イノベーションの例として「YouTube」が挙げられる。YouTubeはインターネットの中で使われている音声動画を組み合わせたに過ぎない。独自の技術開発ではなく、「枠組みの新規性」だけだ。
一方、太陽光発電の技術力は世界的最高水準の我が国が、社会制度化させる点において不得手な現実を直視したい。このインフラ・イノベーション脆弱性は国レベルのマクロから、企業・団体といった組織レベルのミクロに至るまでの日本の弱点ではないだろうか。
日本型組織がイノベーションの発揮を阻害する要因の一つは「個を同化する」魔力ではないかと考える。組織の論理に従順するあまり、いつの間にか企業とその業界の文化、風土、商習慣に慣らされ、気が付けば皆と同じ視野と視座に染まってしまう。一方、組織は活動を効率的に進行するため、ある環境を一定のものと捉え、その環境適応力を高めようとする。
しかし取り巻くビジネス環境が激変する現代では、過去への過剰適応する組織は、現在の環境との乖離を生み、柔軟性に欠け、硬直化してしまう。従業員の間は前例踏襲の悪しき官僚主義が横行し、組織の有用性は喪失する。
取り巻くビジネス環境と組織の不一致を解消し、環境と組織を再度アジャストさせ、組織に適応力やフレキシブルな柔軟性を取り戻すことが喫緊の課題であることに多くの経営者は気付いている。ゆえにイノベーション待望論となっている。イノベーションは環境変化を的確に掴み、時と場合によっては環境自体を変化させ、しなやかで強靭な組織へ変貌させる役割を果たす。
~組織内におけるイノベーションを活性化させる~
皆様は「元リク」という言葉をご存知だろうか。リクルート出身者のことで、現在ベンチャー系企業経営者の多くは元リクだ。
多くの日本型企業が個の論理を組織の論理に同化させる傾向にあることは先述した。しかし、リクルートは、社員が「自ら機会を創出し、機会とともに成長する」ことが創業以来の指針であり、「個の自立と尊重」が今でも経営の要となっている。極論すれば個の論理>組織の論理という思考が組織の根底に流れているように感じて仕方ない。
個の論理を封印し、組織の論理に埋もれた幻想のエリートを輩出する限りでは、真のイノベーションなど期待できない。組織は規模拡大に伴って、持続性・安定性の向上を目指し、ルール化され、運営効率化が進む。マネジメントによって複雑性を減少させることが、組織化のプロセス。
持続性・安定性の追求は、環境への過剰適応という自己破壊DNAを組織に組み込んでいくという組織化の副作用を生むという悲しい現実を直視しなくてはならない。
個人の生き方として、組織に同化し、そのような組織の流れにただ身を任せ漂流していることは気楽かも知れない。しかしそのような生き方はいずれ閉塞感を生み、生きがいを喪失する行為でしかない。
ではどうするか!?まずは、組織の論理から自分を解き放つイメージを沸かす。そして、自分とは何か、自分には何が出来るのか、帰属組織を活用して出来ることは・・・と考え抜くことだ。
~個に立ち返る~
日本の戦後教育は利己主義と個人主義の境界線を曖昧にし、個人主義が自己中心主義に歪曲されてしまったように感じて仕方ない。
利己主義とは自分に対する激しいまでの、そして肥大化する“自己愛”であって、総ての中で自分の利益を優先させる。
一方個人主義は思慮深く静かな自己革命を貫く孤高の騎士が秘めるイズムだと僕は理解している。
夏目漱石は大正3年(1912)に学習院で「私の個人主義」について講演した。漱石が定義する個人主義とは自己本位に立脚し、自己の個性の発展に努めることに他ならない。崇高なまでの個人主義とはそのようなものだと噛みしめたい。
現代は、うんざりするほどの情報、選択肢、刺激に溢れている。そのような環境下を無意識に漂流していると、物事の全体像を把握する力、瑣末な大多数の中に顕在する本当に重要なことを見極める力が衰えてしまう。メディアの多様化は情報洪水を加速させ、価値の多極化は自分自身の基軸を混沌とさせる。
現代社会において、自分を振り返るとはどのようなことか。僕は生きる上での基準を、世間、組織、コミュニティの論理ではなく、個の論理に引き戻すことだと考える。
すなわち「自立した個」を取り戻す!に尽きる。そのためには成りたい自分への刺激と挑戦への気概を喚起させられるような場に身を置くことが大切だ。世の中に沈殿する閉塞感は、形式的な前例主義や、行動に移すまでのプロセスが慎重過ぎることにも起因するのではないだろうか。
“石橋をたたいて結局渡らない”といったことは止めよう。考え込むより、まずは実践する。体系的な理論の呪縛から自分を解き放ち、結果を求めて徹底的に試行錯誤を繰り返し、生じた結果によって思考の意味を見出す感覚を重要視する。
僕たちは統計や確率によって生きる訳ではない。人は意志によって行動し、自ら確率を変え、その結果自らが変わる存在だ。
たとえ成功の確率が低くても、前に進む時は進む。イノベーションのDNAとは行動のための思考だと胸に刻む。左脳が設定する「枠」を飛び越え、境界を外した思考の中で、隠された関連性を見出す喜び。
右脳の活動を左脳が認識していない時にこそ、関連性を自由に捉え、新たなパラダイムの扉が開く。
見た通りを絵に描くか、脳内小宇宙を絵に描くかの違い。
視覚情報に溢れた現代社会において、敢えて聴覚に絞って地球の裏側に聴診器をあてる。現地の水音、人の気配、鼓動、息吹に耳を澄ますことが、僕たちの感性、想像力の帯域幅を増やすことになる。
暗く危機的な未来とはお別れして、新たな常識が支配する未来からの留学生として次世代と語り合う。己と他の境界線を溶解し、利己と利他が渾然一体となる瞬間を絶えず希求し続ける。イノベーションの萌芽とはそういうものだと考えたい。(柴田明彦)
電通時代の柴田は、組織の「個を同化する魔力」と自分から変化しようとするイノベーションの葛藤の中で思考し、行動していました。あなたのイノベーションを起こすヒントがたくさんあります。ぜひお読みください。