~シリーズ「電通イズムその功罪」③~
シリーズの3回目は、柴田が電通入社から5年目までのエピソードから、まだ経験の浅い時期だからこそ鮮明に映る人との関わりの中で自分軸を形成するヒントを探ります。(編集記)
◆1985年
映画『ボヘミアン・ラプソディ』の快進撃が止まらない。僕の周囲の知人は何回も観て感涙している。伝説のバンド「Queen」。ファンには怒られてしまうが、フレディ・マーキュリーの物語について僕はよく知らなかった。が、僕はこの映画から“芋ずる式”に思い出すことが二つある。それは「ライブエイド」と「御巣鷹山」。
1985年、入社3年目となり過酷なフジテレビ担当部でどうにか生き抜いていた。
ライブエイドは「1億人の飢餓を救う」というスローガンを掲げアフリカ難民救済を目的に7月13日に行われた20世紀最大のチャリティーコンサート。日本ではフジテレビが放映権を獲得し、午後9時から7月14日正午まで放送した。
先輩と共に、フィリップモリスが提供する特番の立ち合いでフジテレビのスタジオ(当時は新宿河田町)に詰めた。フィリップモリスのK氏とはその時に初めて出会ったが、以来長い付き合いになるとは当時知る由もない。脱線するが「フィリップモリスK氏と私」というタイトルで講演出来る。ご用命お待ちしています。
本線に戻そう。
音楽リテラシーが極端に低い僕だが、あの特番のインパクトには圧倒された。キラーコンテンツとは何か!?という本質を学んだ。芸術的素養がなくても、メディア・ビジネスを仕掛けることは可能。多くのヒントを頂けたことに感謝している。
その興奮も冷めやらない8月12日、日本航空123便が群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した。
18時頃、後輩Mとフジテレビから戻り、築地の「満留賀 」(*残念ながら閉店したそうだ。思い出の場所がまた一つなくなる)で定番“親子丼&もり蕎麦の大盛り”を食べながら深夜残業に備えていた。その時店内のテレビに“日本航空123便の機影がレーダーから消えた”とテロップが流れた。
食欲旺盛の二人は、箸をつけ始めた状態の大好物を恨めしく眺めながら会計を済ませ、フジテレビに猛ダッシュで引き返す。乗客名簿を入手するためだ。
フジテレビの報道部は、既に蜂の巣をつついたような状況になっていた。FAX前で日本航空から流れてくる乗客名簿を待っている報道部員に「私が受け取って必要部数をコピーしてお届けしますよ」と笑顔&親切心を振りまき“ベストポジション”を獲得した。
当時のFAXは“カタ、カタ、カタ”と“発声”しながら送受信速度が極めて遅かった。報道部員は苛ついていたことが幸いした。僕たちも必要部数をちゃっかりコピーして、報道部以外の部署(*FAXの送信速度が遅いため、大量多方面に送信する場合は複数FAX機を使用するのがベスト)から社の関連部署へFAXした。
当時のフジテレビの皆様、こういう時のために各部署のコピー&FAX機IDを秘匿していたことは時効ということでご容赦くださいませ。
翌日、事故現場の惨状を一早く報道したのはフジテレビだった。
「生存者がいました!」とヘリに救出される川上慶子さんの映像を覚えている方も多いと思う。あの映像を「3時のあなた」に送ったのは、報道部2年目のI江。
フジテレビと電通フジテレビ担当部は、社外であっても社歴上下で呼び捨てが許される不思議な関係性だった。従って僕はI江!、I江は柴田さん!と呼び合う仲。
報道機材を担ぎ、夜を徹して山を登り現場に駆け付けたI江を慰労するため一献傾けた。
しかし、その夜がI江と呑んだ最期になった。彼は、その後カイロ支局に異動、取材中に亡くなった。しかも航空事故とは・・・。
◆5か月と18日
電通には以前10年間で3部署(局間異動)を経験させて、一人前のアドマンを養成することを主眼にした「人事ローテーション制度」があった。その制度を推奨した役員が退任する花道に“生贄”になったのが、僕たち同期であったことは以前述べた。
部長は僕を現局に残すため“局内の部間異動”で“1回異動”としたことにしようと考え、お気持ちは大変ありがたかったですが“部間異動”はカウントされませんでしたね(笑)、日本テレビ担当となった。
直上の先輩は慶應体育会競争部出身と聞き身構えた。異動初日、早めに出社しK村先輩を待ち構える。待てどもなかなか現れず、始業ギリギリに滑り込み、隣の席に座るなり「はあー疲れた」とため息。荒ぶる猛者が多い局の中で、極めて異質なタイプで拍子抜けしたことを思い出す。しかし、奢らず昂らずマイペースで生きる姿勢がとても素晴らしく、ロールモデルにさせて頂いた先輩の一人だ。そしてやんちゃな後輩の操縦法を熟知している。
「日本テレビにベースキャンプを張ります。午前中は会社にいますが、午後から麹町(当時の日本テレビ社屋)に行き、あらゆる部署の方と呑みますので直帰します!」と宣言しても「そうか!」以上オシマイ。以来“過酷な新聞局”に異動するまでの5ヶ月と18日間、毎晩日本テレビのF田氏プラスアルファーと飲み明かす。お陰様で日本テレビの多彩なメンバーと知り合う機会を得た。そのご縁からと言っても過言ではない。愚弟が日本テレビに勤務することになったことを感謝している。
当時はフジテレビが三冠王を独走していた時代。
フジテレビと日本テレビでは社風が大きく違う。蟻とキリギリスに例えるなら、日本テレビが蟻、フジテレビがキリギリスだと思う。ライバル局を真剣に研究する姿勢は民放の中でも日本テレビがダントツだったのではないだろうか。
毎夜、日本テレビのメンバーと杯を交わしていたが、話題は今風に言えばコンテンツビジネスに終始した。“酒を呑む時に仕事の話をするな!”という御仁とたまに出会うが、僕はその対極にいる。天気、ゴルフ、ギャンブル、オンナ等の話は一切口にしない。相手が、その類の話題を出してきても、合の手を入れることなく、同調せず“鎮火”するまで黙って見守る。カラオケに付き合うこともしない。乾杯から朽ち果てるまで、ビジネスの話題直列一気筒。閑話休題はお互いのビジネス観か自己哲学といったところか。そして酒席の話を放置しない。
翌日、談義内容をきっちりと反芻し、昨夜の相手とシラフでさらに一歩詰める。短い期間ではあったが、ビジネス上の「作品」を産み出すことが出来なかったことを猛省している。相当に時間を要したが、そのケジメを今春(3月末から4月上旬)つける。日本テレビの盟友と祝杯を挙げるまでカウントダウンだ。
◆28歳までを総括すると・・・。
経験が浅い時の視座を忘れないことが肝だと思う。素人は新しいアイデアに対して心が閉じていないという好都合な真実。何が「正しい」のかを知らないというのは、何が「間違い」なのかを知らないということに他ならない。専門家、大家、権威になってしまわないことが大切だ。
過去の成功体験というテンプレートに縛られ、たった一度の成功体験に寄生するのはやめよう。
僕たちは、人生の大半時間を本当の自分ではない誰かとして過ごす。周囲に期待される人、出来の良い息子、エリート社員、良い父親などなど。正統派という教義に沈殿すると、その他大多数と見分けがつかなくなる。自分らしくあるという気概と能力を喪失し、やがては本当の自分をも忘れた頃に定年を迎える。宮崎駿作品「千と千尋の神隠し」に登場する「カオナシ」と化してはならない。
他人の劣化したコピーでいるより、一番出来の良い自分を目指す。
右も左もわからず社会に出て約5年間の視座を思い出アルバムに張り付けるのではなく、いつでも取り出せる状況下に置いておこう。新しい発想など、所詮旧知の発想を組み替えたものさ!と嘯きながら。(柴田明彦)