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ポストコロナは真価が炙り出され誰もが豹変する時代/シリーズ3000文字の呟き

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口髭はやした若かりし頃の柴田

久しぶりに届いた柴田のコラムは、新型コロナウイルス、そして先月から始まった愛娘さんとの同居生活の中で、着実に変化する環境と間合いをとりながら、今後の人生をどう生きるか行く先を見据えた静かな視線を感じました。

変化せざるを得ない激流の時代の生き方のヒントになれば幸いです(編集記)

◆往生際の悪い藻掻き!?

少し前まで僕の脳内引き出しに“老い”という単語はなかった。もとい!意識して貯蔵しないようにしていた!と言った方が正確かも知れない。ゆえに日常会話やメール、手紙等において「いい歳して・・」「もうそんな歳じゃないよ」「あと〇歳若ければ」などの単語を使用した記憶はない。一方で、その類の言葉を発する相手には「老成化するな!」と反撃(心の中で)してきた。サミュエル・ウルマンの「青春」という詩とフランスの哲学者アンリ・ベルクソンが提唱する「生存するということは変化することであり、変化するということは経験を積むことであり、経験を積むということはかぎりなく己れ自身を創造していくことである」という言葉を絶えず脳内に響かせ、精神力は肉体力を凌駕するさ!と嘯いて生きてきた。が、しかし。昨年の誕生日に30代、40代、50代を迎える節目には一切感じなかった何か新たな“違和感”を覚えた。その感覚を未だに上手く表現出来ないが、その原因は何か!?僕は知っている。60歳定年という“サラリーマン双六”が僕の耳元で囁く。同年代サラリーマン友達の多くは終着駅に到着している。僕は辞表を出した時に“疑似定年”を体験したから“定年抗体”は出来ていた。もっともフリーランスの僕に定年はない。未知の未知とでも言おうか、断崖絶壁の岬先端に立った感覚、連続面がプッツン!と切れたような・・。Volatility(変動性・不安定さ)、Uncertainty(不確実性・不確定さ)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性・不明確さ)の「VUCA」という時代を再認識する。昨年の誕生日以降、終活マニフェスト(4冊目の執筆もその一つの項目に掲げた)を作成しながら、老いという“小悪魔”との闘いが始まり現在進行形。“いかに死ぬか”“いかに生きるか”武士道と騎士道の違いをなぞってみたり、不老不死に恋焦がれる気持ちもわからないではないなあぁ・・などと夢想。今はそんな感覚で脳内小宇宙を浮遊している。リアルな世界では、実年齢を容認出来ず、否!頑なに否定しつつ、逃避行を続ける“ピーターパンシンドローム・オヤジ”と化している(笑)。

◆娘との生活がスタート

3月31日、関西に住む独身娘をマイカーで迎えに行った。往復約1,000キロ走行、しかも日帰り、まだまだ若いじゃん!とほくそ笑む。「僕と同年代の父親が皆そうではない!」とドヤ顔で話しながら運転する。父娘の“微妙な距離感の生活”が始まる。僕の生活環境変化に呼応するかの如く、世の中は新型コロナウイルス騒動が蔓延していく。各方面に甚大な被害を巻き起こしている惨状を見るに忍びない。不眠不休に近いコンディションの中、最前線で活動されている医療関係、ライフライン従事者の皆さまに謝辞を述べたい。緊急事態宣言が発令後、自粛要請が各方面に吹き荒れ、自宅に滞在する時間が増加の一途を辿る。娘との共有空間と時間の増大は、容認する導火線が短くなり、取るに足らない事柄から“痴話喧嘩”(とても口外出来る代物じゃない)へと着火するが、コロナ最前線で闘っている多くの方々を想起すれば不毛な怒り(笑)は鎮火する。否、鎮火せざるを得ない!と言っておこう。

口髭はやした若かりし頃の柴田

口髭がなんとも時代を感じますねぇ。笑

◆ポストコロナに思いを巡らす

さて世の中が自粛要請に覆い尽くされている昨今、書斎か大学研究室に籠る時間が増え、相対的に瞑想する時間も増している。“新しい生活スタイル”なるワードが巷間流布されているが、その“贈り物”は緊急事態宣言の解除と同時に宅配されてくるものではない。新しい生活スタイルを“予測”するのではなく「構想」することが重要だと考える。ポストコロナは元の生活に戻ることではない、いや一見そのように見えても、社会や個人レベルの意識深層部分では様々な変化が起きるだろう。コロナ終息後に予想される変化の一つは「時間給」的な働き方からの脱却ではないだろうか。在宅で仕事をすると、当然ながら“通勤”や“勤務時間”という概念がリセットされる。「何時から何時まで働いたから、何時間分の給料をもらう」という形ではなく、「働いた成果に対して報酬を受け取る」という形態に変化(進化と言ってもよいかも)する。成果さえ上がれば、オフィスでも在宅でも仕事をする環境は問わない。いつどこで、どのように働くか、働き方に多様性が生まれ、働く個々人が自分で決められる範囲、自己決定権が広がる。働き方改革の引き金を引き、ブラックカンパニーの代名詞となったのは僕の古巣・電通だ。広告会社の利益構造はマージン(中間手数料)とフィー(ここでは暫定的に成果報酬型としておこう)。広告会社は随分前からマージンからの脱却、フィーへの転換を標榜してきた。が、しかし。長き慣習、既得権益の甘い汁から離脱することなく、ズルズルと惰性で現在に至ってきたのが現状。ポストコロナは広告業界に限らず、多くの業種、企業における収益モデルが「フィー」の概念に傾注していくことは間違いないだろう。

20世紀型工業化社会では、工場に出勤して、決められた時間分生産ラインで働くという時間給的な働き方がメインだった。更に言及するなら、戦後日本(特に高度成長期を中心に)において「一つの会社で一生涯働く」ことが美徳であり「一致団結」「愛社精神」「満員電車」「残業」などが当たり前になった。21世紀に入って20年経過した今も、働き方はなかなか変化しなかった。それが奇しくも新型コロナによって大きく変換するというのも皮肉なことだ。

今回多くのビジネスマンがリモートワークを経験し「毎日オフィスに通勤しなくても仕事はできる」ということに気付いた、いや気付いてしまった。大学もオンライン授業に切り替わり、新米教授の僕は授業運営に関して悪戦苦闘、日々学びの連続だ(笑)。“3密”という言葉が世の中を席巻した。密集し、生活コストが高く、新型コロナのような感染症も広がりやすい大都市に住むのはデメリット!と考えるのも自然な流れ。国内の感染状況が完全に終息したら、田舎に住むという選択肢に目を向ける人も増えるだろうし、国内移住はこれから注目される現象かも知れない。田舎のほうが家賃も生活費も安く、低燃費な生活が可能。豊かな自然の中で子育てをしながら、自給自足や地産地消の生活を送る一方で、オンラインで最先端の働き方をするというハイブリッドの暮らしを目指すのがトレンドになっても不思議ではない。

今回の新型コロナウイルス騒動がなくても、働き方改革はゆるやかに変化していた。リモートワークが推進され、時間給ではなく成果に対して報酬をもらうフリーランスのような働き方に徐々に注目が集まっていた中、今回の新型コロナウイルス騒動は、働き方改革をドライブさせることは間違いないだろう。

自分はどんな生き方をしたいのか、どんな働き方をしたいのか、何ができるのかが問われる時代。情報洪水の濁流から一時避難して「自分のやりたかったことは何なのか」を自分に問い直す。これから訪れる未来を必然として捉えるか、青天の霹靂と嘆き人生のイニシアチブを放棄するか、未来に対する構想力が問われる。“Stay home”期間中は内省する千載一遇の好機と考える。人のモチベーションは可変量関数。ヒト、モノ、カネと言われる中、ヒトにだけある特徴は可変性だ。「VUCA」という生きた時代の文脈で、自分なりの理想像をデザインし構想する。ポストコロナは真価が炙り出され、誰もが豹変する時代。と僕は確信する。(柴田明彦)

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