32歳の時、地方部に異動になった柴田。
電通マンとしてのアイドリングも終わり、何度となく修羅場もくぐり抜け、仕事の流れ、成功の方程式も徐々に蓄積して“大いなる勘違い”が芽生え始めた年頃に
禍福糾える縄の如し-グランドスラム達成の地/シリーズ「電通イズムその功罪」-10 より
「死ぬなよ!」と送り出され、たどり着いた地方部での仕事ぶりは無茶にも感じますが、その反面、仕事で関わる人達との真剣勝負を楽しんでいる様にも感じます。
水を得た魚の様な、、?柴田の息遣いを行間からどうぞ感じて下さい。
◆伝統の・・・栄光の・・・。
当時の(過去形で表現せざるを得ない)新聞局地方部は“電通最右翼集団”だったと先述した。
電通創業以来現在に至る最古の部署・地方部には、すでに鬼籍に入った偉大なる諸先輩が昼夜問わず部内を闊歩している錯覚に陥ったことが多々あった。特に宴席は物故人の数が現役の数を圧倒的に上回り、会場内を跋扈しているように感じて仕方なかった・・笑笑。
新聞局では上位者を肩書ではなく「さん」付けで呼ぶ風習がある(これは現在進行形だと思う)。新聞社も同様の文化だ。むしろ新聞社の文化が電通当該部門である新聞局に伝播されたという方が適切かも知れない。ちなみにテレビ局は“肩書呼称”文化だと思う。テレビ担当部門から新聞社担当部門に異動した自分には、その呼称文化の違いが鮮明かつ新鮮に感じた。いや!むしろ新聞文化の方が自分にはしっくり収まる。美辞麗句をかっ飛ばしたコミュニケーションを好む!ということだろうか。前戯を疎かにした本番!と想起された方がいらっしゃるかも知れない(笑)。またお約束の脱線。本線に戻そう。
地方部は47都道府県を3ブロックに分け業務を遂行する。
北から「北部」「中部」「西部」の3班体制でそれぞれのエリア新聞社を担当する。
北部は北海道、東北6県(青森、岩手、秋田、山形、宮城、福島)、新潟、長野、山梨、栃木、群馬、茨城、千葉、埼玉、神奈川。
中部は静岡、北陸3県(富山、石川、福井)、岐阜、滋賀、和歌山、三重、京都、奈良、兵庫。
西部は中国5県(岡山、広島、鳥取、島根、山口)、四国4県(愛媛、香川、徳島、高知)、九州7県(福岡、佐賀、長崎、大分、熊本、宮崎、鹿児島)、沖縄。
ちなみに東京都、大阪府に地方新聞社はない。*三重、和歌山、滋賀県にも県紙はない。各班は10名前後で班長ではなく「キャップ」という呼称のリーダーが班を統括する。僕は最初西部に配属され、山陽新聞社(岡山)、中国新聞社(広島)を1年間担当した後、西日本新聞社(九州ブロック紙)担当になった。
異動と同時に地方部プロパー社員の中に紛れ込み、既にアクセル全開で爆走を続けている僕は生まれながらの地方部適用者だったように思う。「伝統の新聞局、栄光の地方部」というフレーズは、現役諸先輩に留まらず、ご先祖様(!?)の囁きも聞こえてくるほど僕を覆いまくった。昼夜問わず左脳、右脳、前頭葉、後頭葉すべてに“擦り込ぎ”をかける。新興宗教のイニシエーションとは、きっとこのようなものなのだろう!?僕は疑似体験をしたと確信している(苦笑)
◆伝統の地方部、栄光の北部
次に北部に異動。
西部から北部といっても部内における配置転換に過ぎない。
博多の行きつけの店の女将さんに異動を伝えたら「寒いだろうけど風邪ひないでね!」と労いの言葉をいただいた(笑)。
九州ブロック紙・西日本新聞社から北海道ブロック紙・北海道新聞社担当という“担務変更”は、僕の精神面に強い衝撃を与えた。あたかも博多から札幌に転居するかの如く。引っ越しという文脈で言うならば、岡山、広島、福岡に次いで北海道。県民性の違いが明確なことに驚くと同時に未だに根強い“幕藩体制の名残”を学ぶ機会となった。
そして北海道新聞を1年ほど担当した後、北部キャップに就任した。キャップとは世間一般の課長・係長といった身分職とは違い、単なる“呼称”に過ぎない。10人ほどの後輩部員を引率する軍曹のような存在だ。
しかし電通新聞局の中においてキャップは異様に責任の重い特殊な立場だった。特に地方部においては新聞社に対するインパクトが際立っていたように感じる。担当する新聞社に対する意識レベルは電通を代表していた。“代表取締役平社員キャップ”と言ったところか。
北部キャップの管轄エリアと新聞社数は、中部・西部より多い。
また東北各新聞社役員の中には強烈な方言の御仁も多数いらっしゃった。
特に秋田魁新報社編集担当I専務の東北弁は群を抜いていた。社員でも100%理解出来ないレベルだと伺い納得。僕はなぜかしらI専務に可愛がっていただいたが、当然ながら“正確な”意思疎通に苦慮した。日本酒を酌み交わしながら、さまざまな談義を重ねる。僕はI専務の「眼」を凝視して会話に努めた。目元に優しい微笑みを感じたので愛想笑いをしたら「笑うところじゃない!」とお叱りを受けた。
ある時I専務から電通のM専務に「電話」である件が相談された。現場の僕に下りてきた段階で、その案件は「秋田駅前再開発」になっている。即座に秋田魁新報東京支社に確認したが、駅前再開発の話など微塵もない。色々と取材した結果、I専務から持ち込まれた案件は「ワールドゲームズ」であったことが判明。ワールドゲームズとは非オリンピック競技種目を集めて4年に1度,オリンピック開催の翌年に開かれる国際総合競技大会のことで「もう一つのオリンピック」ともいわれる。
2001年秋田県で行なわれた第6回大会では,綱引き,ボディビル,ビリヤードなど 26の公式競技と相撲など五つの公開競技が実施された。I専務という“翻訳機”にかければ、ワールドゲームズは“駅前再開発”に化ける。IOC(国際オリンピック委員会 )も真っ青だ。IOC、ざまーみろ!と言いたい(爆)。
当時、北部に福岡育ちの早稲田ラガーマン・藤浩太郎が九州支社から異動してきていた。こよなく愛する後輩だ。僕は“確信犯的”に彼を秋田魁新報社ほか“東北弁の強烈な新聞社”担当に任命。I専務が東京出張で支社に滞在しているタイミングを見計らい、彼を挨拶に行かせた。僕の“企て”は見事に成功。藤が会社に戻ってくると同時に東京支社長から「柴田キャップ、ありがとうございます。藤さんに例の特集を買い切っていただきました!」と御礼の電話を受ける。藤に確認すると「I専務がニコニコしながら“何か”話しかけてきたので、何を言っているのか分からないけどハイハイ!と応えました!」と回答。九州男児にI専務の秋田弁が理解出来る訳がない。自分の不用意な即答から大きな物件をセールスすることになった事件は彼にとって貴重な体験になったことだろう。「青春の門」とはそのようなものさ!と笑いが止まらなかった。
◆酔いに負けるは敗者の弁
新聞局在籍期間中のアルコール摂取量はハンパない。特に北部キャップ時代は日本酒を浴びるように呑んだ。ウチの県の酒が呑めないのか!?という暗黙の圧を感じる日々(笑)。
青森出張から帰京する時に、岩手日報社O氏から「盛岡を素通りするわけないよな」と声をかけて頂く(嬉し涙!)。青森出張の往路は飛行機だったが、帰路は“もれなく”東北本線で盛岡下車となる。駅ホームには「柴田キャップ歓迎!」と手書きの模造紙を持ち、僕の名前を連呼する岩手日報社員が立っている。“どっきりカメラ”あるいは“高校映画研究会”の撮影か!?あの日の盛岡駅ホーム乗降客の視線を僕は忘れない。
さて、ホテルにチェックインすることなく岩手日報馴染みのお店に直行。酌をしないと呑んだ気にならないという御仁から熱烈歓迎を受ける。僕の目の前にはご当地の美味しそうな肴が並ぶが、正面ならびに両サイドから途切れることなくお酌交戦の中、なかなか箸がつけられない。ほどなくすると「柴田は地元料理がお気に召さないのか!」と指摘される。冗談じゃない!!僕は食べたいのに箸を持つ余裕を与えないのは貴方方でしょ!
継ぎ足しが許されない状況下、注がれる度に飲み干す。僕一人で多数の酒豪御仁と対峙。血中アルコール濃度が高まっても、会話に支障をきたしてはならない。精神力が肝臓力と闘い続けるかの如く。
お陰様で47都道府県には胃液の思い出しかない県が幾つかある(笑)。それも僕の大切な思い出と言っておこう。お後がよろしいようで。~続く~ (柴田明彦)
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地方部でのエピソードから感じる勢いは、柴田の仕事への情熱がそのまま現れている様に感じます。
その中には、仕事への美学を窺いしれる事でしょう。(編集記)