社会脳という言葉を柴田の口から聞くことがよくあります。
様々な人と関わる日常の中で他者と上手に関わり自己実現するのに必要な能力だと理解していますが、コミュニケーション能力、自分軸、リーダーシップなど柴田のコラムで語られている全てが社会脳をバージョンアップするヒントになります。
今日のテーマは「自責」です。
◆他責から自責へのキッカケ
独立して間なく、石川県金沢の某大学で3年間1,2年生対象にキャリアプログラムに関する講義を行った。授業が始まると同時に“携帯をいじる”“隣人と話す”“寝る”など日常茶飯事。最前列に可愛い女子学生がいるなと思いきや、次に見た時はコンパクトと睨めっこで化粧を始めていたのには驚いた。最初は「俺がこんなに良い話をしているのに、なぜ聴かないのか!?」と憤り、「だから現代の若者は」と嘆き、ストレスは充満するばかり。そのような時、エジプトで紀元前の石碑が発見され、そこにアラビック文字で「今どきの若い者は・・」と刻印されていたことを知り、翻って自分の講義を反芻した。「何も言わずに黙ってオレの話を聴け!」といった感覚で講義していなかったか!?一方的に喋り倒す自己満足に陶酔していなかったか!? 社会経験に裏付けされたオレの話は聞くべきだ!と決めつけていなかったか!?挙句に「俺の講義に耳をかたむけない今どきの学生」という「他責」で問題を片付けようとしていなかったか!?と。電通在職中“通過儀礼”のような退屈な会議で眠りこけていた自分を思い出した。あの時なぜ居眠りしたのか。エキサイトするような会議だったら寝る暇はなかったのではないか。90分間、飽きさせない、眠らせない、私語をさせない、化粧させない(笑)講義は究極のプレゼンテーションだ。人様にプレゼンテーションの極意を偉そうに喋る前に、まずは体現してみろ!と自分に厳命した。
◆「教える」とは希望を語ること
プロフェッショナルの第一義は顧客利益第一(client interest first)。その真髄は大学講義においても然り。大学生の反応などお構いなし。“無機質”に話し、あたかも猫を相手に板書する“消化授業”などプロフェッショナルの所作とは到底言えない。されど、お客様は神様!の如く大学生に迎合することもあってはならない。ましてやトレンディな文法で話すなど言語道断だ。でもそのような講師が数多存在することも悲しい事実だ。本線に戻そう。自分の講義を修正するために、他の先生方の講義を拝聴し、さまざまなプログラムの試行錯誤を繰り返しながら改良策に取り組んだ。「教える」のは「教えられる」より上位といった「序列概念」は企業におけるタテ型OJTで発揮されてきたが、現代の人材育成はその限りでは通用しない。教える、教えられるは序列ではなくあくまでも時限的役割に過ぎない。航空会社ではCRM(cockpit resource management)という概念を大切にしていると訊く。緊急時に自分自身で勝手に決断するのではなく、副操縦士、キャビンアテンダント、地上管制官等さまざまなリソースから情報を集め、その人たちの助けもかりながら的確に判断するという考え方。船の世界においてもCRM同様「BRM」(Bはブリッジ)が船長のトレーニングに使われている。タテに教えるだけでなく、ヨコや斜めといった「学びあい」の発想を導入しなければ訴求しない。本気で語りかければ本気で応える。本気度が希薄になった現在だから、なおさら本気というウイルスを蔓延させたい。自分が対峙する相手は鏡、ゆえにミラー効果になる。この感覚は人材育成すべてに通底する。と僕は信じて疑わない。
◆シラバス
昨年秋から神奈川の某大学でご縁があり「メディアコミュニケーション」講義を受け持った。先日14コマの授業を終えたばかりだ。僕の講義は2単位で受講学生は106名。シラバス集に乗せた講義紹介は以下の通り。
『理論、セオリー、方程式を知っているというだけでは、それを使いこなしている人には敵いません。使いこなすとは自分に引き寄せ、自分の頭で解釈し、自分なりの定義を付け、実践の場で何度となく使っていく過程で自身の思考回路と体に馴染んでいくようなものです。第三者・傍観者ではなく主体的・能動的に当事者として捉え、解説を言われるがまま鵜呑みにすることなく、自分の範囲内の事象に置き換え、自分の活動領域で試し、体感を積み重ね血肉にしていくプロセスこそが「使いこなす」ことに他なりません。
現代社会は、耳障り良い「ワード」が飛び交い、その内容を吟味することなく、上滑りしていく現象が蔓延しています。聞き慣れない新鮮な響き、あるいは耳触りの良いワードに浮かれ、記号、絵文字などフラット化したコミュニケーションに本質を見極めない危うさを感じます。生きている時代の脈略を読み取る知性を「コンテクスチュアル・インテリジェンス」と言いますが、現代はまさにその知性が問われます。またその読み取り方は画一的な模範解答が唯一ある訳ではなく、十人十色の解釈の仕方があっても構いません。ひとり一人の文脈、背景を踏まえ、現在の置かれた環境の下、自分流儀でダウンロードした時、コミュニケーションの深みが増していきます。
本授業ではメディアコミュニケーション論を机上の空論にすることなく、実践に即した観点から演習等も織り込んで進行していきます。メディアとは自己と他者の間に介在する総てのモノです。既存メディア(新聞、雑誌、ラジオ、TV、インターネット等)リテラシーを高めた上、個々人のメディア政策を樹立し、合わせてプレゼンテーション能力やコミュニケーション能力の向上を目指します。』
今年の前期は4講座受け持つ。現在、シラバス作成に向け格闘中。
◆次世代育成、世代継承
人材研修講師の際に尋ねることがある。仕事内容を「大きな」「難しい」に、「小さな」「簡単」といった対語を加えて4つに仕分けた時「小さくて難しい仕事」は何だろうか!?と。当然ながら正解がある質問ではない。僕はその代表例として「次世代育成」を挙げる。組織団体に帰属するビジネスマンにとって、勤続年数が増えるということは、本来次世代育成の責務が増すことと同義と考えたいところだが、残念ながらその相関関係は希薄だ。「任せる」という行為は、「任された」人間の責任感を推し量る指標である以上に、「任せた」人間の力量が問われるものだと考える。相手の自立を促すための支援を「サポート」と呼び、一方で相手を出来ない存在ととらえ、相手に代わって手助けすることを「ヘルプ」と言う。魚の「釣り方を教える」のか、魚を「釣ってあげる」のかの違い。面倒見が良いあるいは親分肌といった評判の上司が陥りやすい罠とも言えるので要注意だ。サポートが優れた上司の元には成長と責任感、特に「自責」意識が高まる。責任「Responsibility」とは、反応「Response」する能力「Ability」を意味する。自分の置かれた状況を正確に分析し、理解し、いかに反応するかを決める能力。ヘルプされ続ければ、反応する能力が育成されることはない。反応は上司の役割で、部下はただ指示を待ち受けるのみと化してしまう。十人十色、さまざまな個性・体験・価値基準・視座を持ち合わせた生身の人間に対して、刻一刻と変動する今という時代の変数や文脈を踏まえた育成プログラムほど難易度の高いものはない。自分の過去の栄光や一度限りの成功体験を一方的に押し付けても拒絶反応を起こすだけだ。持論は常に環境変化に対して開かれていなくてはならない。取り巻くビジネス環境に持論を「晒す」勇気と、絶えず加筆訂正していく努力を怠らない。その改善策なき持論は、居酒屋で酔っ払った陳腐なオヤジの説教でしかない。老害になる前に引退すべし。
次世代育成において大切なことは「補助線を引く」ということに尽きる。相談者は、既に選択肢選定や解決策を潜在化していることが多い。相談を受ける立場はそのポテンシャルに「気づき」の機会を提供するに過ぎない。一人で自転車に乗れるようになれば不必要となる「補助輪」の役割に徹する。それが次世代育成の基本姿勢であり、先人の責務ではないだろうか。(柴田明彦)
「あの人のせいでこうなった」といった他責思考では物事の解決策は発想できません。自責思考は問題解決の手綱を自らの手で持ち続ける事に等しく、そこからはアイデアが産まれます。
次世代育成、世代継承を自責のテーマとして活動する柴田の覚悟が伺えました。
電通時代の柴田も自責のかたまりでした。もっとも2度同じことはしたくない!と言っておりますが。笑。