シリーズ「電通イズムその功罪」⑥
今回は時系列を跳び越えた番外編。前回の続きを期待されている方(もしいらっしゃれば・・だけど)ゴメンなさい!独立して“元電通”というラベリングをある時は意識し、またある時は張られていることすら本人が気付かないで疾走してきた。その間に感じたこと(&感じていること。現在進行形)を列記しておきたい。
◆0.3%未満を見ただけで・・・。
日本の全企業における99.7%、国内雇用76.8%を占める中小企業は、まさに日本経済の顔と呼ぶべき存在だ。大企業の比率は0.3%。その中でも電通在職23年間は、広報、宣伝などに象徴されるコミュニケーション活動を積極的に展開している“一握り”の企業(主にB to Cと表現される企業。企業(business)が一般消費者(Consumer)を対象に行うビジネス形態)動向を見て世の中全体を理解しているつもりだった。大いなる勘違いも甚だしい。同年代の平均給与水準より“やや高い”所得の電通マンが、「庶民感覚、生活者の視点」と述べても空々しい感じがする!と各方面から指摘を受けたことがある。競合の博報堂と対比して言われたことも多々あった。電通は“消費者”、博報堂は“生活者”というワードを好んで多用する。それはシンクタンク名称の違いにも顕れている。電通総研と博報堂生活総合研究所。電通総研が新年を予想するレポートのタイトルは“日本の潮流”。来年はこのような一年になる、心して聞け・・的な論調は、まるで“神のお告げ”(笑)。電通が“神の目線(上から目線)”、博報堂は“地上の目線”(ここでも生活者目線という表現がしっくり収まる)と思える。
◆既知と未知の境界線で真価が問われる
電通マンには幾つかの特徴がある。“僕は何で知っているよ”的な万能の神を演じるのも、その一つかも知れない。逆に言えば「知らない」という環境下に置かれる自分を極度に忌み嫌う癖がある。もっとも、これは一般的な人間の心理だと思うが、電通マンは特に強い。
だから“知ったかぶり星人”が社内にはたくさん生息している。
面白い話を思い出した。某キャップ(電通新聞局での呼称。10人前後の班員を率いる班長)は、知ったかぶり星人の代表格。班員が何を報告しても、彼は「あーそれね。知っている!」と返答。何でもかんでも知ったかぶりするキャップに対しストレスが溜まった班員達は、ある班会の報告場面で悪巧みを考え実行した。「〇◇新聞社は、今度□▽企画を実施することになり・・」と報告を始めると、案の定知ったかぶり星人キャップが「知っているよ!」とインターセプトしてきたので、班員は「・・というのは嘘でして」と返した。僕は伝聞でしかないが、この場面に居て笑いを堪えながらキャップの表情を観察したかった(笑)。
しかし、電通マンは類似した“珍現象”を社内外で巻き起こす常習犯というのも事実。僕も複数回やらかしたことを白状する。
本線に戻そう。とにかく僕たちは「知らない」という状況を極度に恐れるわけだ(と、無理やり正当化してみる)。僕たちが生きる現代は、複雑性、曖昧性、不確実性が増すばかり。従って既知と未知の境界線に何度も立たされる。未知を恐怖と見立て背を向けて逃げ出すのか、可能性の宝庫と考えるか、分岐点となる。既存の理解から解き放ち、離脱する勇気が、自身のパラダイムシフトととらえたいものだ。タヌキは急激な驚きに遭遇すると仮死状態に陥るという。「たぬき寝入り」の語源もその現象から派生しているのだろう。
さて、われわれ人間はどうだろうか。複雑な問題、よくわからない問題、想定外の問題、説明のつかない問題などに直面すると、さまざまな手段を講じて未知から逃げようとする。そのような場面でわれわれが取りやすい行動は「無理やり主導権を振りかざす」「分析を繰り返して時間稼ぎする」「主体性を放棄して引き下がる」「悲劇の主人公に逃げ込む」「拙速な行動に出る」、あるいはタヌキ同様「多忙なふりを決め込み、見ざる言わざるとなる」といったところだ。
ある意味、このような行動は自然で無意識の反応であり、生存本能の表れかもしれない。個人にとって「知らない」という事態は恥ずかしさであり、自分の弱さ、不完全さを突き付けられる。組織、団体においても、知らないことへの耐性が低く、無能さを暴露されたくなく、つい拙速に表面的な答えを出して事態を収拾することが多い。
僕も自身を振り返り、さまざまなビジネスシーンにおける未知との遭遇で、既知の枠組みに固執し、未知に飛び込み新たなスキルを獲得する機会を失ったことを猛省する。
一般的メタファーとして知識は光にたとえられ、知らないという状況を闇にたとえる。「一寸先は闇」「お先真っ暗」「五里霧中」などだ。われわれは「可視化できないイコール何も起きていない」と考えたがる。しかし、変容は闇の中にも起こり得る。知らないという闇は、余白に何かがないのではなく空間があると考えれば、新たな光を呼び込む自由度が増す。すなわち、知識があると見なす問題点は、知識がないことに潜む機会と可能性を閉め出すことに他ならない。既存の知識がいかりで固定されてしまうと問題の本質を見失う。われわれは、あるべき環境の地図(メンタルマップ)を頭の中に持つ(*徒に年齢を重ねると汎用性の低いメンタルマップが山積してしまう)。その地図と実際の環境を照らし合わせ自分を認識する。メンタルマップと実際の環境のマッピングが狂うとパニックに陥る。山で遭難したとき、生還率が高いのは6歳以下の子供だという。子供には精緻なメンタルマップがない。従って実際の環境をメンタルマップに近づけることなく、現在自分が置かれた環境で順応しようと努める。禅の修行は、知らないという姿勢で対峙することを初心と呼び、その大切さを教える。
無知の空間を無理やり知識で埋め尽くすという誘惑に抵抗できるなら、新たな発想、機会、可能性を生み出せる。既知にしがみつくことなく、知らないという事実を受け止める寛容さが、現代のリーダーに求められる思考だ。既知に頼って状況を把握するだけではなく、既知の論理から離脱する勇気も必要ではないだろうか。電通を退社、独立してから痛切に感じる。
◆99.7%は未知の世界
電通という“強烈な新興宗教”から離脱して考え続けてきた、いや現在も継続して考えている。視野狭窄に陥る罠を避けるにはどうするか!?多様性の真理とはなにか!?
一部を見て、一部の意見に耳をかたむけ、他方に盲目になる姿勢は既知の世界に閉じこもり、
新たな視点、価値観を無意識に遮断している行為と戒めた。
フジサンケイビジネスアイで毎週火曜日に『本気の仕事講座』というビジネスコラムを3年間連載した。その間さまざまな職種ビジネスパーソンの本気度を取材させて頂いた。シェフ、カメラマン、漢方医、パティシエ、保育園長、デザイナー、醤油屋さん、津軽三味線弾き、フラメンコダンサー、絵本作家、地ビール社長、居酒屋経営者、彫金作家、食育活動家、地域おこし活動家、トマト農園経営者、養豚経営者、町長、大学教授など総勢72名。多くの分野で成否を分ける根幹に「知らない」という姿勢がかかわってくる。知らないことに真摯に向き合った人々が、それをイノベーションと可能性の源泉として活用したプロセス。これこそが未知の学習に苦戦する僕にとって最適な教科書と言える。独立後、現在に至るまで遭遇した「未知の国の先住民」の皆様に改めて感謝したい。目の前と向き合い次を察知する!今週はこの線で行こう。
~続く~
(柴田明彦)