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柴田明彦、電通群雄割拠の中に身を投ず/シリーズ「電通イズムその功罪」-4

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仕事の顔とは打って変わって優しい表情の柴田

シリーズ「電通イズムその功罪」④

テレビ担当から新聞担当への異動によって、いよいよ柴田の「赤鬼青鬼伝説」そのプロローグが始まります。当時の勢いが伝わるエピソード、どうぞお読み下さい。(編集記)

◆民族、部族をまたぐ感覚

築地本館ビル3階のテレビ担当部署(ラジオテレビ局)から、同ビル2階の新聞担当部署(新聞局)への異動は、電通社内では極めて稀なケース。二つの部署に流れる雰囲気は、とても同じ会社とは思えない。異星人が舞い降りて来たかのような目で見られたことをしっかりと覚えている。新聞局“プロパー社員”(以降「新聞種族」と呼ぶ)は自分達こそが、伝統の中軸部門であり、保守本流という意識が強い。いや“新聞中華思想”と言っても過言ではない。1901年創業以来、新聞広告の売上がナンバーワンで長く走ってきた。しかし1974年、テレビ広告が新聞広告の売上を抜いた。歴代社長は長く、新聞局それも地方部(*全国地方新聞社担当部署)出身者という暗黙のルールがあった。*本件については後ほど話すかも知れない。

最古のメディアを担当している“新聞種族”からすれば、“新興メディア”を担当する“テレビ種族”など軽んじた存在として見下す感覚があった。その新興勢力に売上首位の座を抜かれた新聞種族の怒りは、社内派閥抗争にも飛び火した。やくざ映画を彷彿させる場面など枚挙にいとまない。
印象的な事例を紹介する。
テレビ種族のボスU副社長の父親が亡くなった。通夜は新聞種族が仕切りまくった。テレビ種族親分のご尊父通夜に列席したテレビ種族の幹部(この事例ではK局長)は、至るところに“敵対する新聞種族の構成員”が張り付き、仕切っている現状を見て、烈火の如く怒り「業務など後回しだ。明日の葬儀・告別式を仕切り直せ!」と部長達に厳命。緊急会議が招集された。会議室に入ると、部長たちが葬儀会場の見取り図を広げ、弔問客の導線に沿って「配置」をチェックしている。新聞種族の持ち場に、テレビ種族の若者が切り込み隊として送り込まれる。僕もその悲しき“ヒットマン”の一人として、第2駐車場に送り込まれた。持ち場では若き構成員たちの鍔迫り合い、そしてささやかな代理戦争が勃発。この事例は僕が新聞局に異動するちょっと前の出来事。第2駐車場で“タイマン張った”相手とその後新聞局で共に闘い、「赤鬼青鬼伝説」を創出することになるとは・・・。そのような時代背景と“柴田固有の文脈”ゆえに、“敵地”から来た僕に対する新聞種族の視線は厳しかった。

◆新聞人養成期間

左手首に鼻を近づけ、自分の腕時計革バンドの匂いを嗅ぎながら「柴田くん、第〇営業局に行き、△△と□□の来月の新聞出稿状況を取材してきて!」と指示してくる代頭の先輩がいた。僕はこの“個性的な趣味”を持つ先輩の指示を無視し続けたら、T部長に呼ばれ、ヒアリングしない理由を訊かれた。「御用聞きは紙担(新聞社担当のことを言う)に勝手にやらせればいい。情報の“集積コーナー”を作るだけなら知恵は必要ない。」などと啖呵を切ったら「そうか。好きにしろ!」と一言。さて、どうするか。先ずは徹底的に新聞を読みまくることにした。毎朝出社すると、朝日、毎日、読売、日本経済新聞4紙すべてを徹底的に読み込み、ビジネス化できそうな記事を中心に気になる記事も大学ノートにスクラップしていく。この地道なアナログ的作業から、二つの成果(一つは営業成果、もう一つは趣味的な成果)をゲットした。一つが新規証券会社の新聞全面広告出稿などを含むCI作業の受注であり、もう一つはエジプト出張。ちなみに朝日新聞担当への異動内示は、エジプトからコレクトコールで掛けた国際電話で訊いた。日本に帰りたくなくなったのを明確に覚えている。詳細はこれから述べる。

仕事の顔とは打って変わって優しい表情の柴田

朝日新聞担当になって「ガチョ〜ン」ではありません。笑。

◆“白髪になるか、〇ンポになるか”と言われた朝日新聞担当

テレビ担当から新聞担当へ異動し、新聞人養成の日々は、別会社に転籍したかのような錯覚と現実の交差する期間だった。マインドコントロールの被験者になったかのような気分を味わうことも多々あったと思い起こす。僕を放任してくれたT部長は、ランチや酒席に誘っていただくことが多々あった。彼は風変りな先輩だったが、着眼と柔軟な発想力、そし雷電の如く迅速な行動力は抜群!で、僕の新聞局ロールモデル認定第1号。「新聞局のどの部署を希望する?」と問われ「テレビではキー局担当だった。新聞では朝日、読売ではなく毎日、産経を担当したい。また地方新聞社にも大いに興味がある」と答えた。T部長はいつものように「そうか!」と意味深の笑みを浮かべ以上オシマイ。どうせ僕の意向など馬耳東風だろうと思っていた。ある時「お茶飲みに行くぞ!」と部長席から号令、歩いて朝日新聞社に向かう。部長と部次長を紹介され、矢継ぎ早にさまざまな角度からの質問を受けた。それが口頭試問であったことなど知る由もない。朝日新聞での“茶話会(笑)”の直後エジプトに出張した。10日間のエジプト出張は僕の人生観を大きく揺さぶる。このままエジプトに定住したい!と本気で考えたが、現実に戻り、現地からコレクトコールで会社に連絡した。ひとしきり業務報告が終わった頃、一年先輩の女子社員が電話を替わり「エジプト暑い?食事美味しい?ピラミッドどう?スフィンクス見た?・・・お土産よろしく!」とマシンガントーク。ひとしきり喋り倒した後「そうそう!柴田クン11月1日辞令で朝日新聞担当だって!!」。先に言えよ!T部長のニヤニヤした笑い顔を思い浮かべた。まんまと罠にかかった。しかし、不人気三大部署の一つにまた僕ですか!?朝日新聞担当部署のキャッチフレーズをリフレインしたくない(笑)。

◆出入り禁止

自分の意思とは全く無関係に、晴れて“天下の朝日新聞社”担当になった。キャップ(班長の意味。電通新聞局では新聞社内呼称と合わせて使用している。新聞社との親和性を醸成する心理的な狙いか!?)は、入社5年目の僕を敢えて2,3年目業務である「割付」から担当させた。割付とは広告主から申込みのあった新聞広告原稿を希望の掲載面に載せる業務。新聞広告の割付という場面にしか使わない専門用語も熟知しなくては仕事にならない。当時は圧倒的な売り手市場であったため、希望面での掲載は至難の業だった。従って広告会社の割付担当者は、事前に希望日以外の掲載日幅、希望掲載面以外の掲載面優先順位など諸条件を少しでも多く事前に用意して、新聞社の広告整理部(新聞広告を割り付ける部署)と折衝しなくてはならない。新聞社と広告会社間には“貸し借り”が行き交う“前近代的商習慣”のど真ん中に僕は飛び込んだ。しかも担当先は、当時の権威とも言われた朝日新聞社。なかなか思うようにならず、広告整理部と社内広告主担当営業部門との狭間で、喘ぎ、苦しみ、出社拒否者が出るような職場。不人気であることは至極ごもっとも。“白髪になるか、ふんにゃら・・”という表現も納得出来る。それでも新入社員から配属されれば、それが仕事だと全身に擦り込まれ、疑問を感じることなく“洗脳”されていくのかも知れない。ただ、僕は違った。入社5年目で、いきなり落下傘部隊に組み込まれ現場に配置されたようなもの。さまざまな割付商習慣に疑問を持ち、異論反論をぶち上げ、確信犯的な言動で物議を醸し出し、出入り禁止!前科△犯となった。歴代の電通朝日新聞“割付”担当者としては最下位にランキングされること間違いないだろう(笑)。朝日新聞社から電通に対して「柴田を割付担当から外せ!」との“天の声”が届いたこともあり、僕は割付担当から企画担当にシフト変更された。ここからが勝負!巨艦・朝日新聞に立ち向かう精神的準備は整った。

~次回に続く~

(柴田明彦)

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