先日のニュース(2019年4月)で経団連の中西会長が「終身雇用を続けるのは難しい」と発言したのは記憶にも新しく、昭和、平成と続いてきた日本の主要な働き方が大きく揺らぐ中、磐石に思えたものが揺らいでゆく姿を、社会にこれから出ようとする(あるいは出たばかり)タイミングで見ている若い世代より、むしろ、今まで”確か”だったものに慣れてしまい対応の準備が出来ないまま、働き方のシフトチェンジを余儀なくされたミドル世代の方が、これからの働き方に大きい不安を抱いているのではないかと思えます。
そのようなミドルがこれからどの様に生きるのか?
今まで蓄積したものを活かして今後を生き抜くために必要な生き方の「本質」に繋がる、柴田流の考え方を掘り下げます。(編集記)
~ミドルの責務~
◆カンフル剤
元号も改まった。昭和という時代に生まれ、育ち、青春を謳歌。平成の時代に2児の父親となり、喪主を務め、起業した。令和の日々は大好きな詩を脳内に響かせ過ごす!そう誓う。
『青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、安らぎに就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない~中略~人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである~後略~』サミュエル・ウルマンの「青春」はカンフル剤の一つだ。しかもこの詩が80歳の記念に自費出版した「80歳の歳月の高見にて」に収められていたことを知り、強い衝撃を受ける。サミュエル・ウルマンの気高い精神性を見習い、自身の糧とする。大多数の瑣末なことに別れを告げ、本当に重要なことだけを見極める。99%の無駄を捨て、1%の本質に集中する感覚。これに尽きる。
◆最近増えてきた同窓会
今年〇回目の年男となり、9月に節目を迎える。ちなみに僕はこの“節目ワード”を好まない。だから自ら表現しない!とだいぶ前から決めていた(変なこだわりだぜ)。なぜか!成長と進化の節目は誰かが定めた境界線ではなく、自分で感じ取り、極太マジックで引きたいと強く願うからに他ならない。あるいは世間一般の時間軸とは別に(グリニッジ標準時に背いてでも)、僕固有の時間軸を大切にしたい!という天邪鬼な気概とでも言っておこうか・・。お約束の脱線、本題に戻そう。先日、小中学校時代のプチ同窓会に参加した。最近やたらと同窓会が増えてきた。同年代のサラリーマンにとって今年は大きな節目となる。サラリーマン双六に喩えるならば“あがり”であり“終着駅”とも言えるか。唯一フリーランスの僕に対して「柴田は定年がなくていいよな」「この歳から大学教授になるなんて最高!」「色々な名刺を持って羨ましいよ」等々しみじみと語りかけてくる。23年間のサラリーマン人生から“次”を考えることなく勢いで辞表を出し、独立して13年。子どもの学費や税金を分納して支払ったことなど彼らは知る由もない。サラリーマンがいかに安定し、恵まれた環境に置かれているかを痛感したことも事実だ。「寄らば大樹の陰」「金看板」を捨て、無から自分のブランドを立ち上げてきた日々を思い返しつつ、微笑みながら「色々あったんだなぁ、これが~」と一言だけ返答し、話題を切り替える。しかしこの夜は節目以降の話題に堂々巡り・・・。曇天のような重たい空気が支配した終盤、誰かが「皆で会社でも作るか」と発案。この発言は一服の清涼剤の如く、場の雰囲気を和ませ、安堵感のある賛同を得て散会となった。偽りの安堵感であることを誰もがわかりつつ。
◆僕たちに残された課題
周囲を見渡してみる。夢やビジョンを語るミドルがどれだけいるだろうか・・・。よしんば夢やビジョンを語る時に、希望的観測、無い物ねだり、条件付きになっていないか!?そこに必ず実現する!という強い意志と本気度が充満しているか!?残念ながら日本企業、それも大企業において強い意志と本気で夢、志、ビジョンを語るミドルが少ない。少なくとも僕の視界においては悲しい現実と言わざるを得ない。大人になるということは「何でも出来る」という万能感を喪失していき、現実との折り合いをつける過程だという考えも確かに理解は出来る。しかし、ニヒルに構え、徒に老成を急ぐこともないではないか!と叫びたい。子どもが抱く夢は無垢だから純粋に美しい。そんな夢の弱体さに目を向け「夢みたいなことを・・」「そんなこと実現する訳がない」と言うオトナが多い。彼らは夢を現実の対極に追いやってしまった種族だ。でも僕は、そのような種族の仲間入りはしない。“人生の正午を過ぎた”ミドルがふと立ち止まり、来し方を統合して、その延長線上の先に、生きがいを感じる夢を抱くことはとても素晴らしい。少なくとも僕はそうあり続けたい。
企業の人材育成研修講師を仰せつかることが多々あり、その際によく聞くセリフは「最近、弊社の若手は昔のような覇気がない・・」「自分たちの若い頃とは違う」などなど。はたして今の若者は気概や覇気を失っているのだろうか。僕の見解は違う。むしろ彼らを教育・指導してきたミドル世代に大きな問題があるのではないか、というのが見解だ。組織のミドルは地位におけるパワーをよりどころに部下である若者をマネージメントする。そこに夢、志、ビジョンがない限り、シンクロ(同期化)など生まれない。一介の医師だったチェ・ゲバラがなぜ短期間に司令官に成り得たか!?その理由は謎が多いところだが、一つだけ確かなことがある。それは自身が敢えて不合理性への跳躍を体現したこと。本当に凄い奴に利己的な輩はいない。利他性に溢れた本気度しか伝わらない!という真実に注視したい。大学教授という責務を拝命し、その想いは倍化の一途だ。
◆地元に誕生した新たな聖地で夢想
僕にとっての聖地は神宮外苑、東京タワー、母校キャンパス(日吉&三田)、天山湯治郷、鵠沼海岸などなど。中でも神宮外苑の銀杏並木にいる妖精たちは少年時代からの僕を見守り続けている。そして“巡礼”のたびに妖精たちのささやきが僕をリセットしてくれる。ちなみに僕が表現する妖精とは守護霊ではない。このニュアンスの違いだけで一時間以上語り尽くせる(笑)。閑話休題。ここ最近3年間の赤坂在住時、気が付くと神宮外苑を徘徊している自分がいたことに驚いた。どうやら格別なスポットのようだ。昨年、生活基盤を湘南に戻し、ライフスタイルは赤坂在住時代と180度変わった。日没と共に就寝、夜明け前に起床、そんな漁師のようなサイクルも非日常ではなくなった。近所(徒歩1分)にあった「元町ユニオン」が閉店となったことはショックだったが、跡地に食品スーパーマーケット「Odakyu OX 江ノ島店」が先月オープンしたことに狂喜乱舞。これで自炊の頻度も更に高まる(鼻息!)。ドラマ「99.9」では、主人公を務める嵐の松本潤が料理しながら瞑想するシーンが毎回ある。あの感覚は自炊に目覚めた僕もよくわかる。僕のような素人シェフは余裕がないので真剣に料理と向き合う。ゆえに真空な状態になり、心の声が聞こえてくる感覚が体験できる。僕はそのように考え、料理プラスアルファーを楽しむ。そして久しぶりの湘南生活にサプライズがあった。それは近所に民家をリニューアルした「オーガニックレストラン」が開店したこと。このテラス席は新たな聖地となった。先日もこのテラス席で瞑想に耽った。写真の僕の表情はリセットされた証か、あるいは悟りの境地に近づいたか(笑)。“秒の殺し屋”のように忙しく動き回ることを有能なビジネスマンの証だと勘違いしていた頃は、「立ち止まったり」「考えたり」「眠ったり」する時間を極力削ぎ落とすように努めていた。あたかも、そのような時間は無駄な贅肉と考えダイエットに勤しむかの如く。しかし立ち止まることは生産性を上げる特効薬だという真実に辿り着くまで時間を要した。僕にとっての聖地はある時において、階段「踊り場」のイメージかも知れない。スマホは退屈しのぎを増やしてくれた。しかし退屈を駆逐した結果、考え瞑想する時間さえ奪われてしまったように感じる。集中は向こうからやってくることはない。自ら集中できる場に飛び込む。僕にとっての聖地とはそのようなもの。(柴田明彦)
「納得できる味になるまで人にご馳走しない」
と言う柴田の作る料理は「素材を活かした薄味」でどれも美味しいです。
太鼓判押せるまで試作、試食するこだわりは仕事に対する姿勢にも似ていますね。